僕の生まれた頃の町の様子   カモミール お買い物かご 

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ここでは私の町の、僕の幼い頃の「陶町」の様子を思い出して
綴ってみたいと思います。時代とともに変った町の様子とともに
この町のたどってきた歴史を私の目から紹介します。

カモミールこの町に生きて暮らす。頑張って残そう僕達の故郷

山と川の中に

 山と川で遊ぶ・・・僕達の小さな頃は遊び場は山と川でした。川といっても小さな川で、子供の膝ほどの深さしかありません。家の台所からざるを持ち出して川に出かけます。ざるをがまこ(川の渕の深み)にあてがい、足でザクザクとがまこをかき回して、水の中からざるを上げると、いろんな草に混ざって、ドジョウ、ヤゴ、イモリ、ザッチ、めだか、はよ、いろんな魚や虫が入っていました。宴会の余興の「ドジョウスすくい」と同じです。いろんな虫の中でも大きなタガメや水カマキリが出てくると心臓が破れるくらい怖かったのを覚えています。ザリガニを釣ったり、えん堤で魚釣りをしたり気が付くといつも夕方になって、お母さんに叱られるのが怖くて友達みんなで急いで家に帰ったものでした。家に着く頃は汗で頭の毛が針ねずみのようにとがっていて、「ただいま!」と大声で玄関を開けたものです。夏は日が長いので、山へクワガタやカブト虫をよく採りに行きました。いそうな木を体を横にして足でどんどんと蹴ると、「ポツ!」と小さな音がするので、その辺をよく探すとクワガタが裏返っていたりしたものでした。何ともいえない瞬間です。川には川の匂いがして、山には山の空気があって、今でも時々子供達と山歩きに行くと、幼い頃のことを思い出します。僕ばかりじゃないみんな、こんな遊びをしながら大きくなったと思います。今では取り巻く環境や町の様子は大きく変ってしまったけど、自分はというとその頃と何も変っていないようです。気が付くといつも夕方です。。さあ帰ろう。。塩辛トンボ、おにやんま、みずすまし、、人はそんなに変われない。。。


遊びつかれて帰りはいつも夕方だった。

かすかな記憶を掘りおこして

 通学路・・・学校への道は舗装されていたり、されていなかったりで今のように完全舗装はされていかったので、雨が降れば水溜りができ、雪が降れば薄氷が張り、僕達子供は競って水溜りに足を「ばちゃ!」と踏み入れ、薄氷に「ぱりっ!」と割りながら歩いたものでした。それに軒の屋根も樋がない家がけっこうあって、冬にはものすごい太さの氷の氷柱(つらら)ができて、持っている傘でつついて樋から氷柱を落して遊んだり、氷をなめながら通学したものです。道の脇には霜柱ができて「さくっ!さくっ!」させながら足跡をつけては・・・家に戻る頃は手も足も真っ赤になっていました。クラスの中には冬のなると赤いりんごほっぺにかさかさな手足、何人も手足が真っ赤にはれあがって「しもやけ」になる子がいました。教室が暖まるにつれ、「かいー!」と言いながらぽんぽんに腫れた指をボリボリかいている子がいました。今の時代と違って「働く町」では親にゆとりがなく子供はいつもほかりっ放し、鼻たらしや小汚い子供もたくさんいました。鬼ごっこをすると前が見えないほど土煙があがり、遊び終わると髪の毛が白髪になったようで、顔を見合わせながらおなかの痛くなるほど大笑いをしたものでした。これもまた時代時代の子供の形なのかもしれません。今にして思うと楽しく、のんびりとして歯車もゆっくりと回っていたときだったようです。お宮の境内、上り坂の石の階段、クワガタ採りやドジョウすくい、洞穴探検、田んぼのツボ採り、、友達の笑い声。。。耳を澄ませば今も聞こえる。。。


田んぼの畦道は家への近道だった。

煉瓦の煙突

 町のシンボル・・・僕の育つ時分は今にして思うと戦前戦後の第1全盛期のあとの陶器の第2全盛期だったように思います。家の裏の土手に上ると町じゅうに工場の煙突が立っていました。四角い茶色や柿色の織り交ざった丸く長い煙突です。陶器を焼く窯から出てくるすすや煙がモクモク出ていました。立っているというより「つくつく」と生えていた感じでした。当時はアメリカ、イラン貿易が全盛で焼けば売れる時代といわれていました。どこの工場も活気にあふれ、多くの労働者で賑わっていました。町じゅうが陶器一色の世界です。学校への通学の傍ら、工場の窓越しに職人さんがロクロに土をぶつけては成型している姿が今でも浮んできます。同級生のお父さんやお母さんがいっぱい働いている姿を見かけました。当然作るほどに町の人間だけでは人も足りなくなって、当時、お隣の長野県や遠くは九州から多くの「金の卵」と呼ばれる集団就職の労働者が出稼ぎに来ていました。僕の同級生にも何人か九州出身の人がいます。学年の人数も僕達の頃は100人ぐらいだったが町の全盛時代は一学年230人という年もあったようです。今では僕の子供の学年で30人から40人と減ってしまいました。4クラスから1クラスになってしまいました。町自体がいかに小さくなっているかわかります。戦後の全盛時代からドルショック(360円相場から為替レート)、イランイラク戦争で町の工場も次々に倒産して、町から煙突もどんどんなくなり、小さな町に80件近くあった陶器メーカーも現在では10件ほどになってしまいました。今は同じアジアの中国、タイなどの進出でまた苦しい時代の中にいます。しかし陶器でここまできた町「陶町」だから何とかしていつまでも陶器の町を守っていかなければならないと思います。いい時代は長続きしない。。。


あの頃の青空は?

町の全盛は

 栄華の頃・・・今の人口4,000人の町に何があったというと、まず驚くことに映画館がありました。隣の町や随分離れたところからも映画を見に来ていました。僕も見に行った記憶があります。当時人気の怪獣映画を見たように覚えてます。入り口には切符を渡すおばさんがいて、ちょうど銭湯の番台みたいな感じですわったいて、そこでお金を払って入って見ました。途中の休憩でお菓子なんかを買いに席を立ち、お菓子をバリバリ食べながら友達と映画を見たことを覚えています。それにパチンコ屋さんが3件ありました。家のそばにも「ニュー気楽」というパチンコ屋さんが1軒あっておじいさんが夕方よくやりに行っていて晩御飯になると僕がよく「おじいさんご飯!」と呼びに行ったことも何度もありました。1個1個入れては弾く手動式のパチンコ台である。今思うと頭に手ぬぐいを巻きつけた仕事帰りの職人さんも遊んでいました。それに舞台といって今で言うステージがいくつもありました。工場で働く人のサークルみたいなもので年に何度かお披露目があって、みんなでこぞって見に行ったような覚えです。田舎芝居や町からの一座も来て興業を開いたり、昔の娯楽が町にはいっぱいあった。若い世代が陶器のメーカーで働き、町の人がほとんど陶町で働き、お金を稼ぎ、町が潤っていたことになります。町は活気にあふれていました。今では若い世代は町を離れ名古屋や近郊の町に働きに出る人がほとんどです。特に土をかまう、火のそばで働く労働環境も若い世代には受け入れられ難いのが原因かもしれません。現に僕達のような陶器の卸業としての後継者も今ではほんの一握りになっています。時代に翻弄されながらも生きる道を模索していかなければなりません。徐々にさびれていく自分の故郷を活気ある町にと願っています。この町に生まれて、この町で育ち、今この町に生きているから。。。。

   

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